大きな食べ物(食べ物エッセイ『くいいじ』より)

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『おおきなかぶ』と言う絵本が有る。
老人が巨大なかぶを一人じゃひっこ抜けないと往生しているといろんな人や動物たちが次々と参加してくれてやっと抜けると言う話だ。
私は子供の頃この話が好きであった。
一人では無理でもみんなが協力して大きな事に向かえば可能になるんだよ、と言う教訓に打たれたのかと言うとそんな事は全く無く、「巨大な食品」と言うものにひたすら興奮し憧れたのである。
しかし大人になってみれば巨大な野菜と言うものは見た目に驚く楽しさは有っても余り美味しそうだと思わない。
大きな南瓜や大根はどうも中身がフカフカしていて食べてみれば間が抜けているのではないかと想像する。
巨大どころかむしろ小さき野菜に心惹かれている事に最近気が付いた。
いつもの様にスーパーで野菜を買って帰り家で冷蔵庫に入れていたら、その日買ったのは芽キャベツとペコロス、プチトマトと言うメンツであった。
ご存知だろうが芽キャベツと言うのはピンポン玉くらいの小さなキャベツで、ペコロスはそれと同じくらいの小さな玉葱。
思い返してみれば、手に取ったけれど棚に戻して結局買わなかったのはミニアスパラだった。
全部通常のサイズより小さく作った野菜ばかりだ。子供用のままごとセットの野菜を並べているような気分になった。
よく考えてみれば私の作る料理もままごとの延長みたいな物なのでちょうどいいのかも知れない。
小さな野菜をこんなに買ってしまうのは何故かと言うと、それ以上切らなくて済むからだ。そのままお鍋でことこと煮ただけで食べられる気軽さも有るし、見た目がころころとして可愛らしい。
ベイビーポテトと言うものも有る。ベイビーポテトと芽キャベツとペコロスでシチューでも作れば包丁もまな板も使う事なく料理が出来てしまう。付け合わせはプチトマトをそのまま出せば丸いものだらけのおもちゃみたいな夕食が出来上がるなぁ…などと想像して喜んでいたのだが、自分が大きくなったら(肉体的に)小さい食べ物を愛し、体が小さかった頃は大きな食べ物に憧れるとはどう言う事かと思った。
小さい頃憧れたイメージは自分の周りが上も下もすっかり全部食べ物な状態だ。
それは「ヘンゼルとグレーテル」のお菓子の家のイメージなのかも知れないし、「マザーグース」の中の一篇のかぼちゃの家に住む男の影響かも知れない。
子供の心の中には「大きくなりたい」と言う気持ちと、「大きくなったら入れない場所に留まっていたい」と言う気持ちが有る様に思う。
私自身は「沢山食べられる様になりたい」と願っていた。そんな事願うなよ!と思うが本当に小さい頃はお茶碗一杯の御飯ですら食べ切れなかったのだ。生まれて初めて食べ切れた日の事は今でも覚えている。
やっとの思いで全部食べ切った、と自慢気にお茶碗を差し出して見せると
「これじゃ全部食べたとは言えません」
と言われた。

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茶碗の内側にはまだびっしりと米粒が付いている。それも全部きれいに平らげて初めて一人前、と言う事なのだと教えられた。
沢山食べられるのは大人になる事なのだとぼんやり思った気がする。
それと同時に自分の小さな体がすっぽりと納まってしまうくらいの大きな、例えばかぶやかぼちゃの家の中でちんまり暮らすと言うイメージにも憧れたのは、子供のままでいたい、もっと掘り下げると母胎の中へもどりたいと言った気持ちの表れだったのでは無いだろうか。
そっちの方は叶えられる事などもちろん無く、胸の奥にぽちりと浮かぶ懐かしいような淋しさも少しずつ薄れて行って、いつしかペロリとお茶碗の御飯も食べられる様になって居た。
そうして気付けば一膳どころか二膳も三膳も食べられる大人になって、今度は小さな野菜に惹かれているのは、そうした小さな世界に住まう小さき人にもどりたいと言う願望が有るからか。
そんな願望は当然叶う事も無いのだが、到底間に合うはずが無い、と絶望してうなだれた〆切もアシスタントさん達の力を借り、編集者にも墨ベタを塗ってもらってなんとか原稿を仕上げる事が出来る。
〆切最終日に向けて一人、二人と手伝いの人が増えて行って最後は全員がうんとこせ!! と頑張って完成させる過程は、そう。
大きなかぶをひっこ抜くあの話にとてもよく似ているのである。
 

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食べ物エッセイ『くいいじ』<文藝春秋>より

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