辛さ(食べ物エッセイ『くいいじ』より)

辛い物が好きだったのにここのところ急に興味を失いつつある。
年齢によって味覚が変わるのはよく有ることだけれど、子供の頃から一貫して辛味好きだったので自分にとっては青天の霹靂だ。
それでふと今まで食べた物の中で一番辛い物は何だろうと考えてみた。

いくらでも有る様な気がしたけれど、ありありと思い出されたのはダントツに辛かった…と言うよりも痛かった
「マスタードのエキス」
である。
マスタードと言うとソーセージなどに付けるつぶマスタードやペースト状のものが一般的だけど、あれはそんなに辛くもない。
むしろ甘味や酸味が強い。ホットドッグに付きもののペースト状の物も辛いには辛いけれども、おでんやトンカツに使う和辛子の方が
「ツンと来る」
と言った意味ではより辛いように思う。
ところで、私の人生において一番辛かった物と言うのは、直接口に入れたりしたら死ぬくらいの代物であった。
会食で入ったイタリアンのお店で、チーズに自家製のママレードが添えられて出て来た。
ママレードは自分でも作るけれどお店でも買うくらい好きなジャムだ。
ケーキ屋さんの自家製ママレード、パン屋さんの自家製ママレード、ホテルの自家製ママレードなど、ママレードを見るとすぐ買ってしまう。
当然トーストにもイチゴジャムではなくママレード派。
美味しいママレードはオレンジの甘さと酸味が程良く混じった上にこっくりとした濃厚さが有る。
スッキリしてシャバシャバした薄いママレードも嫌いじゃないけれど、私は濃いのが好きなのだ。
ヨーグルトに落として食べた時のあの甘酸っぱさとほろ苦さ。
もちろんチーズにもよく合う。ブルーチーズなどと一緒に食べるのがメジャーだけど、カッテージチーズと一緒に薄切りパンのカリッとしたやつに載せると格別だ。

ついママレードについて長々と語ってしまったけれど本題にもどると、そのお店のママレードはとても不思議な味で、何とも言えない美味しさがあった。
甘さとコク、苦さと酸味…の他にもうひとつ。
それはかすかな舌にピリッと来る辛み、なのである。
お店の人にママレードが美味しいですねと話しかけてみたら、説明してくれた。
「もの凄く大きな鍋(と言って両手で輪をつくる)でママレードを煮て、その中に本当に本当に一滴だけヒミツの液体を入れるんです」
そんな大量のママレードに一滴? と疑わしい目で聞き返すと、その人は本当はあんまり見せない事になっているんだと言いながらも謎の小瓶をお盆に載せて再度テーブルにやって来た。
ラベルには液体が染みて半透明になっている。文字はぼやけて読めないが外国語だ。
かなり年季の入った小瓶で、理科室にある茶色い薬品の瓶と似ている。よくよく見ると、やはり薬品の瓶そのもののようである。
高さは十三~十五センチくらいあるが、中身は上から三分の一くらいが使われていた。
匂いをかいでみるか、と聞かれて席で一番若い青年(思い出してみればそれは今の漫画誌の担当Sであった)が何の気もなく鼻を瓶に近付け軽くかいでみる。
次の瞬間ものすごい勢いで咳き込みながら椅子から飛び上がった。
くしゃみと咳と涙が止まらず、何を言おうとしているのかよくわからない。
言おうとしているのはおそらくその強烈さについてなのだろうけれど、この時点でも
「また~大ゲサなんだから…」
などと言っていた私達。
一人がほんの少し指に付けたところから私も小指に付けて、止められるのも聞かずに少しだけ舐めてみた。
飛び上がる程痛い。しかもほんのぽっちりしか付けなかったはずの小指は、時と共にじんじんして火傷の様に痛み、氷水を用意してもらってつっこんでも食事が済むまで治らなかった。
あれは既に食品では無く劇薬である。
ちなみにその店では新入りがしくじった時や言う事を聞かない時に、そのマスタードのエキスをかがせると言う罰が存在するとの事であった。
新人達は例外なく飛び上がって苦しがり、天井に頭をぶつける程の跳躍を見せた人も居たと言う。
昔のアニメの様に天井に頭をつっこんでビヨーンビヨーンとぶら下がり、落っこちてぺしゃんこになる。
大ゲサではなくそれぐらいもう、殺人的な辛さなのだ。
辛さと言うのはボリュームを上げて行くと痛みに変化するのだ、と身をもって実感する事が出来た。
甘さや酸っぱさと言うのは最大限にすると何に変わるのだろうか。
怖いけれど一度試してみたい。

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食べ物エッセイ『くいいじ』<文藝春秋>より

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