京野菜(食べ物エッセイ『くいいじ』より)
「京野菜」と言うジャンルが有る。
壬生菜や聖護院大根、金時人参など、名前もなんだか京都らしく地名に関係したものも多い。ここ何年かで東京のスーパーでもコーナーが作られ、い ろいろな種類を楽しむ事が出来る様になった。
昨日も「わさび菜」と言うのを見つけて、そのちりちりとした張りのある面白い葉の形に惹かれて買ってみた。
袋には「サラダやおひたしに」と書いてある。大人しくおひたしにしようかとも思ったけれど、葉っぱがせっかくちりちりしているのでそのまま食べ たくなって、簡単に豆腐の白和え風サラダにした。
「わさび菜」という名からして辛いのかな、と思いきやそうでも無い。
わさびのさわやかな風味が有る中にほのかな苦みを感じた。
苦い野菜を食べると春なのだなぁと思う。春の野菜の苦みで体が「もう春なんだ」と感知すると言うけれど、私は苦みを美味しいと感じる度に、大人 になったのだなぁと思う。
皆子供の頃は苦くてまずいと思っていたビールが大人になって美味しく感じるようになったと言うが、子供の頃苦手な野菜も苦い物が多い。
大体「食べられない」とか「嫌い」な事を「苦手」と言う位なので、人間にとって「苦味」が基本的に心地良い味じゃないのは、生物として初めから セットされていたと言う事だ。
その「苦味」の対極にあるのが「甘味」だけれど、子供はどうしてあんなに甘い食べ物が大好きなのだろうか。
取材で小学生の男の子五、六人に仕事場に来てもらった時の事を思い出した。
子供が喜びそうなお菓子が無かったので、急いでポテトチップスやらチョコのお菓子やらを大量に買って、普段ウチでは誰も飲まないコーラなども用 意してみた。
こちらが学校の事やら将来の夢やらの話を聞かせてもらう立場なので、ツイご機嫌を取ろうとして田舎のおばあちゃんみたいな品揃えで対応したのは いいけれど、出したはしからあっと言う間に食べ終わるのである。
十歳から十二歳くらいの育ち盛りの男の子なので当然と言えば当然だが、わんこそばぐらいの早さでお菓子を補充しなければならない。
「夕方の五時前なのに…あんた達、晩ご飯食べられなくなってお母さんに叱られても知らないよ!!」
と、おどしてみても効き目は全く無い。チョコを貪り、ガブガブと炭酸飲料を飲み干す彼らを見て、親ごさんに申し訳ない程お菓子を食べさせてしま った事よりも、こんなに大量に食べられる、と言う事にただ単純に驚いた。
彼ら子供は体が元気だからあれだけお菓子が食べられるのであろう。大人になるにつれ長年の疲労やストレス、不摂生がどんどん蓄積されて行き内臓 は弱って行く。
もちろん摂生を心掛け、内臓をいたわって生活している人も居るけれど、意識しなければそう言う事も難しい環境の現代だ。
ついつい外食が続いたり、コンビニで済ませたりしてしまう。
そんな生活をしているとどうなるか。
お菓子を山もり食べまくってもホッペをピンクにしてツヤツヤしていられる、なんて事は無くなるのである。
まず大体お菓子を食べたくない。それでも新商品につられて食べてみたりすると胃がもたれる。
たちどころに具合が悪くなってしまう。
つまりお菓子による身体的ダメージを許容する健康の残量が無いのである。
心身の健康に不安が有ると、体を動かしたりと言ったケアに走るものだけれど、そこに「京野菜」はなんだかしっくり来るものが有るのだ。
何故なのだろうか。苦みがポイントなのだろうか。苦くない京野菜の方が断然多いと思うんだけど。
古からある食べ物、京都の人が平安の昔(イメージ)からずっと食べ続けて来た食べ物。そう言うものを食べれば、少しは健康の残量が増えるのでは 無いか、と考える。
ピーマンの代わりに万願寺唐辛子を買い、芽キャベツを止めてふきのとうを買う。
そうしたら「京野菜・とまと」と書かれたトマトを発見。
平仮名で書いてもトマトはトマトだろ、と思いながら、ついそれも買ってしまった。
健康不安を訴える友人が遊びに来ると言うので、冒頭のわさび菜をはじめとする京野菜に鎌倉でとれたと言うアジをたたきにして長葱をいっぱい載せ て夕食にした。
人間ドックに行かなきゃね、とか腰が痛いのは何処が悪いんだっけ、とか言う話題で盛り上がりながらも野菜を食べた。野菜の苦味が体に染みて、そ うすると何故だか体の毒が少し浄化された様な気がした。
「良薬は口に苦し」と言うけれど、苦い味は食べただけで体に良いような気がする。
最近になって、かえって昔から有る野菜が見直されているのは、現代人が体の中に溜めて来た毒の許容残量がギリギリのところに来ているからかも知 れない、などと考えながら、シャンパンをごくりと飲んだ。