胡瓜(食べ物エッセイ『くいいじ』より)

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大分気温が上がって来て汗ばむ日も増えたので、仕事中のお昼ご飯に「冷や汁」が登場した。
近所のデパートで九州物産展をやっていたらしく女性編集者が差し入れてくれたのだ。
「冷や汁のもと」と言うだし入りお味噌のような物を水で薄め、胡瓜や紫蘇、茄子などの夏野菜を切って入れ、御飯にかける。
冷えた味噌汁を御飯にかけた物、とよく似ているけれどこちらは最初から「冷たい物」として作っている。
その決定的な違いはどこかと言うとズバリ、具に使われている胡瓜だろう。

胡瓜が食卓に頻繁に上るようになると夏になって来たなぁと思う。
まだ今頃のは出始めで、少しは有難みと言うのがあるけれど、胡瓜ほど馴染み深いのに存在を無視されがちな野菜も無いもんだと思う。
夏になると、ほぼ毎日何かしらになって食卓に居る。
その殆どが生、と言うのもすごい。調理されていないのだ。胡瓜の調理のバリエーションは「切り方」ぐらいなのだから。
輪切りにしてサラダに入ってるか、千切りになってバンバンジーに添えられているか。わかめと酢の物になっている日も有れば、竹輪の中に装塡されている事も有る。が、どちらも生。
しかも竹輪の中に入ってた日には「チーズじゃ無いのか…」と、がっかりされる立場なのだ。
可哀そう…胡瓜。
中華料理などではイカと一緒に炒められる時も有るが、日本の普通の家庭においては多分一番手間をかけてもらえない野菜、それが胡瓜。
それは生で食べるのが美味しいから、なのだろうか。
高一の初め頃、私はお弁当を持って通学して居た。
学校には学食や売店も有り、全員がお弁当を持って来ていた訳では無かった。
上級生になる程、学食派が増えて行く。
お弁当を毎朝作ると言うのはとても大変な事なのだ。
特に私は家が遠い事も有り、かなり早朝に起きてお弁当を作らないと間に合わない。
入学したての半年はそれでも母が頑張って作ってくれて居た。
しかし日に日にお弁当へのテンションが下がって行くのが目に見える。
私は、いつ「もう学食で食べるからお弁当はいいよ」
と母親に言おうか悩んでいた。
母としては手作りのお弁当を持たせるのは義務だと思っていたようで、何があっても持たせようと決めている様子なのだ。
ある朝かなりの寝坊をしてしまい、五分で支度して家を出ないと間に合わず、必死で準備していると、私と同時に起きたはずの母がものすごい早さでお弁当を用意して持たせてくれた事が有った。
その時は主婦の底力を見た、と思ったけれど昼休みになってお弁当を開けてみてヒザが抜けた。
御飯が詰まったお弁当箱に生の胡瓜が一本入っているだけだったのだ。
胡瓜に味は付いておらず、マヨネーズも塩すらも添付されていない。
純粋な生胡瓜一本のみがおかずのお弁当…。
梅干し一粒の方がまだ何とかしようが有る。
眠いのに毎日起きてお弁当を作ってくれる母に文句を言ってはいけない、と思ってはいたが、この日はさすがに食べられないよ!! と苦情を言った。
そうして、それをきっかけに私はお弁当を持たずに学食で昼食を食べる派に転向する事が出来たのである。
この思い出は仕事場でたまに有る「恥ずかしい弁当の話大会」でも大抵上位にランクインされるが、それは皆が「何も付けない胡瓜はおかずと言うよりもむしろ主食だ」と言う事を知っているからだと思う。
美味しい味噌や塩を手に入れたりすると、そのままチビチビ舐めて日本酒を飲んだりもするが、胡瓜が有ればもちろん付けて食べてしまうではないか。
胡瓜と言うのはそのままの味を楽しむ、と言うよりも何かの味を転写して味わう時に使われる物なのかも知れない。

胡瓜の食べ方で私が一番好きなのは、色が深緑になるぐらいにしっかりと漬かったぬか漬けの古いのを、向こうが見えるくらいに薄切りにしてすり胡麻をふりかけ、夏の朝ご飯をいただくものである。
ぬか漬け、と言う物はそれ本体は食べない「ぬか」の味が野菜に転写されるのを楽しむ物だ。
「ぬか」の味自体は同じでも、漬けた野菜によって味が変化する。
人参やセロリ等、本来の野菜の味が強い物だと「ぬか」の味では無く「ぬかによって変化した野菜のうま味」を味わう事になるが、胡瓜においてはより「ぬか」の味を正確に味わう事が出来る。
しかもその中には不思議と、今まで感じなかった「胡瓜の味」も濃く感じる事が出来るのである。
夏の朝に、夕暮れに、夏の空気の中に。
季節の描写の中にそっと胡瓜は何かの形で存在している。
こうしてみると案外、幸せな野菜だと言う気がして来た。

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食べ物エッセイ『くいいじ』<文藝春秋>より

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