猫(食べ物エッセイ『くいいじ』より) | MOYOCO ANNO

猫(食べ物エッセイ『くいいじ』より)

ウチには三歳の猫が居る。
名前はジャック。正確なフルネームは「庵野マイティジャック」と言って、昔のテレビ番組に由来しているらしい。夫の命名だ。
小さな毛糸玉ぐらいしかない時に友人に拾われてそのまま家へ来た。
キジトラの雄で甘えん坊な暴れん坊である。
甘えん坊と言っても膝に乗って来たり、布団にもぐり込んで来たりと言った可愛らしい事は一切しない。
むしろ警戒心が強くて抱っこする時は今後嫌われる事を覚悟しなければならない。
…よく考えると全く甘えん坊じゃ無かった、すみません。言ってみたかっただけだった。
そんな彼が唯一話せる日本語は
「ごはん」
初めて聞いた時は耳を疑ったが、かなりはっきりと「ごはん」と言っている。
しかもちゃんとそれが餌である事も理解して使っているようなのだ。
「ゴハン」もしくは「ゴ・ハーン」としきりに鳴いて人間を誘動する時は
大抵彼のお皿が空っぽになっている。
警戒心が強いところと喰いしん坊なところが飼い主に似てしまったのだろうか。


ところで猫は生後三ヶ月だか半年だかの間に食べた物で一生の嗜好が決まるらしいが、子猫の時にそれで育ったせいか彼はドライフードしか食べない。
しかし思い返すと「子猫用ミルク」などをあげても匂いをかいだだけで殆ど飲まなかったのだ。
気付くといわゆる「カリカリ」と呼ばれるフードしか食べない猫になって居た。
どれくらいドライフードしか食べないかと言うと、たまには贅沢させてあげようと買って来た猫缶は少し舐めただけで全く興味を示さない。
病気なのかと思う程食欲が無く医者に行った時も「白身のお魚を少しあげてドライは止めて下さい」と言われたので、刺身を買ってあげたのに当然食べない。
元気になって、またバリバリとドライフードに戻った時も焼き魚の美味しいのが残ったのでお皿に載せてやったら不気味そうにそれをよけて、わざわざ奥に置いてあるドライフードを食べていた。
猫らしくない。
猫と言ったらちゃぶ台の上のめざしをかっさらい、ご主人の晩酌につき合って刺身をひと切れおねだりし、お皿のミルクはピチャピチャ舐めるもんじゃないのか!!
テーブルの上にチーズの残りを出したまま酔っぱらって寝てしまっても、ちょっとも手を出さないどころか興味も持ってる様子が無い。
こうなってくると、真面目なのはいいんだけどこの年になって女遊びのひとつもしない、とかえって心配されてる品行方正な息子みたいな事になって来る。
お願い!手を出して!!
そんな願望を抱きつつ魚料理を並べる時も有る。もちろん手を出したらサザエさんばりに
「コラッ!!」
としかりたいのだが、マイティジャックはあくまで品行方正なのだった。
ドライフードの中にも煮干しや鰹節が混ざった豪華な物や、「半生タイプ」と言ったソフトな歯ざわりの物が有るのだが、どうもそう言うバラエティに富んだのは好きでは無いらしい。しかもチキン系は絶対に口にしない。自分の好みに当てはまった、いつも同じドライフードを安心して食べていたい性質なのだった。
それは誰かに酷似しているのだが、どうしてそんな所が似てしまったのか全くわからない。
夫も自分の好きな食べ物を安心してずっと食べ続ける人間なのである。
そうして私はと言うといつも猫缶を食べてみたいと思っている様な人間だ。
実際食べてる人の話もよく聞くが、豪華な猫缶は「舌平目のテリーヌ仕立て海老入り」とか「グリル風ビーフのシチュー」とか普通にレストランのメニューみたいで大変美味しそうだ。
ジャックが食べないので買う事が無くなかなかチャンスに恵まれないが、いつかは絶対に食べたい。と言うかこの原稿終わったら食べる気がする。
もうひとつ狙っているのが高級ドライフード「シーバ」だが、こっちは「まぐろ&チーズ」と言うのが本当に美味しそうだ。
まぐろのカリカリの中にチーズが入っている。ビールと合いそう。
しかしコレはジャックの大好物なので箱がしまってある棚を開けた瞬間にすっとんでやって来る。袋をあけてお皿に出す間は足許をぐるぐる廻ってのぞき込んでいるので一粒くすねるのが忍びないような気もしてまだ実行していない。
自分の食事がひそかに狙われているのを知って居るのだろうか。
彼は今日も大きな声で叫んでいる。
「ゴ・ハーン!!」
と。
ちなみに人から指摘される私の口癖は
「おなかすいた!!」
なのである。

くいいじ猫

 

 

食べ物エッセイ『くいいじ』<文藝春秋>より

その他の「読みもの」