ところてん(食べ物エッセイ『くいいじ』より)

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仕事をする、と言う時にどうしても始めの一~二時間はダラダラしてしまう。
エンジンがかかるのにしばらく何もしない時間が必要で、その間は机に散らかった消しゴムのかすを集めてピラミッド状にしてみたり、お土産にもらった「長寿黒たまご御守」をじっくり眺めてみたり、鼻をかんでみたりしている。
そうしてよく見てみれば「黒たまご御守」の小さな袋の中に「小さい黒たまご」が同封されて居るのを発見し
「財布に入れると黒字になります」
と書いてあるのを見れば立ち上がって財布を取りに行く。
財布を取って開けてみればとび出さんばかりの領収書だ。
今度はその領収書を整理してみたり、使わなくなったスタンプカードやらを捨ててみたりで、本当にぼんやりと一、二時間が経ってしまう。
「とにかく毎日机に座ること」
とはデビューしたばかりの頃に担当編集者から強く指導された事で心に残っている。おかげ様で未だに私は守っているのだが、その言葉を思い出す度に
「机に座る…?」
とも考えてしまう。机に座ってしまったら原稿はどこで描けば良いのか。
机の上に座って足を椅子に載せヒザの上に画板を置いて描いたら、アルプスの上で写生しているような気分になれるかも。
そんなくだらない事を延々と考えては喜んでいる。
仕事に取りかかる前のそんなアホな時間を無くしてしまいたい。
そう思って久しいけれど、長年の習慣を変えるのはなかなか難しい。
そこで私は毎日ところてんを食べる事にした。

ところてんには集中力をアップさせる成分ややる気を引き出す作用が有る。なんて事はもちろん無い。
見るからに無味無臭、色すら無いのである。
薄い透明で茶色い酢醤油を押しのけるように存在する色の無い部分…そこにはところてんが有る。

今頃のむしむしした気候の日に、どうもすっきりしない頭でやる気を出そうと張り切ってみてもカラ回りするばかりでいっこうにはかどらない。
何日か前のそんな日に、朝思い立ってところてんを食べてみたところ、思いの外スッキリして気持ちが良くなった事があった。
その後仕事に取りかかってみたところ、割とスッキリ出来てしまった。
その時のイメージはまさにところてんを押し出して、ツルーンとガラスの器に落ちて納まるあのスッキリ感であった。
その日から毎日ところてんを食べる様になったのは
「あの壮快感よ、もう一度」
と思っているからだ。
ところてんはスーパーで買って来るのだがいつも食べるのは
「横濱銚子屋黒みつ付ところてん」である。

ところてん

黒みつをかけてももちろん美味しいのだけど、私は生来の酢醤油派なので黒みつは人にあげて酢醤油をかける。
カラシが無かったので粉山椒をかけてみたところ意外と美味しい。
それで気を良くして今度はぽん酢をかけてみた。
ぽん酢の甘味がどうかな、と心配したけれどこれまた美味しい。それにも粉山椒をかけていただく。
最後は水でうすまり丁度良くなったぽん酢を一緒に飲むとスッキリして
「よし、やるか」
と言う気持ちになる。ような気がする。
塩ぽん酢も好きなのでそれでもイケるかと試してみたところ今ひとつだった。
やはりどこかに醤油風味が必要らしい。

お店で食べるところてんでは鎌倉の若宮大路に有る蕎麦屋「こ寿々」のが好きだ。
お汁の味もカラシの量も丁度良く、ところてんの細さや固さも申し分無い。
お蕎麦を食べる人とほぼ同じペースで食べて、丁度良く同じ頃食べ終わるのにもかかわらず大量過ぎない。
ところてんは気を付けないとお腹が冷えるので、食べる時はあたたかいお茶が欲しいと思うのだがこれも小さい急須で付いてくる。
唯一の欠点はいつもお店が混んでいて並ばないと入れない所だけど、これはところてんの欠点では無い。
何の味も無い透明でツルンとしただけのところてんだけれど、食べてから仕事をするという習慣が付いたのか、ところてんを食べると自動的に机に向かえるのだ。
私の中でところてんがどうやら「仕事のスイッチ」になった様で、便利な事になったなぁと思っていたのだが、スタッフに指摘されて初めて気が付いた。
「このところてん、充塡水を捨てて水で流してから食べろって書いてありますよ」
私はパックに入った袋の中のところてんを、充塡水ごと小鉢に入れて食べていたのである。
しかもそれをスッキリと飲み干していたのだ。
体に害は無いのだろうけど、それに気付いた途端なんだか全ては気のせいだったと言う様な気持ちになって、椅子の下で足をブラブラさせ、またもや原稿に手が付かないのであった。

食べ物エッセイ『くいいじ』<文藝春秋>より

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