ネーブル(食べ物エッセイ『くいいじ』より)

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山口の夫の実家からネーブルが届いた。
庭の小さな木に実った十個ほどの実を義母が小さなダンボールで送ってくれたのだった。
徹夜明けの朝、それをむいて皆で食べた。
お店で売っているネーブルと比べると幾らか小振りで、無農薬なので皮もピカピカと言う訳では無い。
それでも皮をむくとこぼれる程の果汁が初めて触れる空気に輝いており、「いただきます!!」という気持ちで口にした。
なんと言うか濃い。甘みだけじゃなくて、こっくりとすっぱい。
子供の頃食べた蜜柑の様な味がする。
外来の果物でも日本で育つと日本風の味になるのだろうか。
農業用に改良されてシステマティックに作られた果物は美しいけれどいつも味が薄いように思う。
美味しさの中に土地の風景や匂いが有るこういう味が好きだ。
疲れた体にじんわりとネーブルの元気さが染み渡る様な気がして目を閉じた。
そうして本当にはっとした。
このネーブルは義父が最後に丹精したものだと言う事に今更ながら気付いたのである。

義父は昨年(二〇〇六年)末に亡くなった。
もうだいぶ前から癌を患っていて、最後の三ヶ月はホスピスで過ごす事になった。
入院する直前まで自宅で庭をいじっていたと思う。
庭と言っても半分くらいは小さな家庭菜園になっており、オクラやトマト、茄子などが育っていた。
夏に帰省するとそれらの野菜が食卓に並んで、私達は喜んで食べた。
庭の真ん中には大きないちじくの木が有る。
カラスが来ては食べて行くので網を張っていちじくを守っていた。
まだ結婚する前に法事が有るからと言うので夫と実家へ行った事が有った。
夫の両親に会うのは二度目だったが、当然私は緊張していた。
仏壇の前に正座をしてお経をあげて下さった和尚さんのお話を伺いながら
「長男の嫁って大変そうだなー…面倒な事多そうだなー…」
などと考えてしまい、早くも帰りたくて仕方がない。
第一どうして私達が和尚さんと話しているのだ?お父さん達はどこ行っちゃったの?
そう思って見廻すと庭のいちじくの木が大きく揺れているのが見えた。
義父と義母が二人して脚立を持ち出していちじくをもいでいるのだった。どうやら和尚さんに持たせようと思ったらしい。
体の小さい年寄が二人でグラグラしながら、しなる枝の先になっているいちじくを、一所懸命にもぎとっている姿は何とも言われない可愛らしさが有った。
今なら
「もう!! 何やってんの危いよ。私がやるから家に入って」
と言えるのだけど、何しろまだ嫁入り前で遠慮している上に足がしびれて立てない。
和尚さんの話はいつの間にかニューヨーク旅行が楽しかった、と言う話に変わっている。
窓の外では両親がえんえんといちじくをもいではグラグラし、背伸びしてはグラグラしていた。
天気の良い昼間によく知らない家の居間で自分の置かれている状況があまりにシュールで笑いを必死でこらえたのを昨日の事のように思い出す。
その時のいちじくで義父が作ったいちじく酒をそれから毎年送ってもらった。
お礼の電話をしても照れ屋なのでいつも余りしゃべらずに義母に代わってしまう。
お酒を飲んで上機嫌になった時だけは別で、政治家や地方行政を片っぱしからやっつけていた。
それでも体が動くうちはいつも黙々と何かしていた。洗濯物を畳んでいるのを見て、夫に「おとーさんを見習いなよ!!」と言った事もある。
私のような生意気な嫁をよく可愛がってくれたものだ。
そんな心の広い義父が大好きで、入院してからはできるだけ時間を作って夫と山口へ帰る事にしていた。
ずっと寝ているので体をマッサージしてあげようと思って赤ちゃんでも使える自然派のボディミルクを買って行った時も、照れているのか本当に嫌なのか「いらんいらん」と言って嫌がった。無理強いしても…と思いながらも手だけやらせてね、と見よう見まねのマッサージをした。
人によっては体に触られるのが苦痛かも知れないのに余計な事をした、と少ししゅんとなりおとなしくしていたが、ふと見ると義父はマッサージした手を何度もなでては匂いをかいでちょっと嬉しそうにしていた。
その時のボディミルクもオレンジの香りだった。柑橘系の香りは元気になるのだそうだ。

義父が作った最後のネーブルは本当にぎっしり自然のエネルギーが詰まっている様な味がして、食べると徹夜明けのシワシワになった体がみるみる蘇生して元気が出た。
これでこの後残りの原稿もいっきに上げられるなーと明るくなって来た空を見上げながら思った。と同時に目がうるんでぼうっと霞む。
あとからあとから涙があふれ、止まらなくなってしまったのでしばらくそのまま空を見ていた。

 

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食べ物エッセイ『くいいじ』<文藝春秋>より

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